『弌墅截(いちのきり)』研究データベース解説

『弌墅截(いちのきり)』とは
『弌墅截』は、江戸時代、四国・伊予にあった宇和島藩10万石を構成する各村毎の租税台帳です。
『弌墅截』は、『弌墅切』と同義であり、『一村切』つまり『一村毎』を意味します。
『弌墅截』は、1684年(貞享元年)に出来上がり、全16巻からできています。

当時『弌墅截』は、藩の最高機密文書でした。

『弌墅截』の情報を、誰でも利用できるようになったのは、1977年以降です。

『弌墅截』は、三好昌文らによって筆写され、出版されました。
『宇和島藩庁伊達家史料 弌墅截上』が1977年に、『同下』が1978年に、 『近代史文庫宇和島研究会』(佐川印刷)から出版されました。
この研究データベースは、『宇和島藩庁伊達家史料 弌墅截上・下』をもとに作成しています。

宇和島藩
宇和島藩は、江戸時代の1615年(元和元年)3月の伊達秀宗の入府に始まり、明治維新まで9代250余年続きました。
1614年(慶長19年)に、大阪冬の陣が終わります。
同年の12月に、その論功行賞として仙台藩主の伊達政宗の庶長男秀宗が宇和郡10万石の領主に任命されます。
宇和島藩の歴代藩主は以下のとおりです。
藩主在任期間
伊達秀宗(ひでむね)1614年(慶長19年)〜1657(年明暦3年)
伊達宗利(むねとし)1657年(明暦3年)〜1693年(元禄6年)
伊達宗贇(むねよし)1693年(元禄6年)〜1711年(宝永8年)
伊達村年(むらとし)1711年(宝永8年)〜1735年(享保20年)
伊達村候(むらとき)1735年(享保20年)〜1794年(寛政6年)
伊達村壽(むらなが)1794年(寛政6年)〜1824年(文政7年)
伊達宗紀(むねただ)1824年(文政7年)〜1844年(天保15年)
伊達宗城(むねなり)1844年(天保15年)〜1858年(安政5年)
伊達宗徳(むねえ)1858年(安政5年)〜1871年(明治4年)

なお、宇和島藩に関する情報は、宇和島市立伊達博物館から得ることができます。

10組213村
1684年(貞享元年)当時の宇和島藩は、10組213村から構成されていました。
宇和島藩では、郷村支配のために10組の組編成を行っていました。
10組とは、城下,御庄,津島,河原淵,廣見内,山奥,野村内,宇和内,矢野保内,浦方です。
『弌墅截』は、城下,御庄,津島,河原淵,廣見内に関しては各々1冊、山奥,野村内,宇和内,矢野保内,浦方に関して各々2冊から成っています。
また、9組の里方(農山村)と浦方(漁村)とに大別されます。

10組213村の構成は以下のとおりです。
村名
城下毛山村(けやま),中間村(なかいだ),柿原村(かきはら),光満村(みつま),
高串村(たかぐし),下村(しも),川内村(かわち),寄松村(よりまつ),
宮下村(みやした),稗田村(ひえだ),祝之森村(いわいのもり)
御庄左右水村(そうず),長月村(ながつき),和口村(わぐち),緑村(みどり),
上大道村(うわおおどう),廣見村(ひろみ),正木村(まさき),板尾村(いたお),
小山村(こやま),中之川村(なかのがわ),満蔵村(みちくら),城邊村(じょうへん),
平城村(ひらじょう),長洲村(ながす),摺木村(するき),柏村(かしわ)
津島野井村(のい),岩淵村(いわぶち),芋地谷新田(いもじや),秀松村(ひでまつ),
槙川村(まきがわ),高田村(たかた),下畑地村(しもはたじ),上槙村(かみまき),
芳原新田(ほはら),上畑地村(かみはたじ),大道村(おおどう),
御代之川村(みよのかわ),山財村(さんざい),颪辺村(おろしべ),御内村(みうち),
岩松村(いわまつ)
河原淵牛野河村(うしのかわ),北川村(きたがわ),奈良村(なら),
奈良中之川村(ならなかのがわ),芝村(しば),近永村(ちかなが),
永野市村(ながのいち),次郎丸村(じろうまる),中之川村(なかのがわ),
松丸村(まつまる),岩熊新田(いわくま),樫谷村(かしだに),
上家地村(かみいえじ),延野村(のびの)
廣見内廣見村(ひろみ),下大野村(しもおおの),中尾坂村(なかおざか),
小西野々村(こにしのの),西野々村(にしのの),清水村(せいずい),
松之森村(まつのもり),畔屋村(あぜや),大宿村(おおじゅく)
山奥 山奥上魚成本村(うおなしほん),田野村(たの),長谷村(ながたに),今田村(いまで),
男川内村(おんがわち),下相村(おりあい),土居村(どい),古市村(ふるいち),
中津川村(なかつがわ),伏越村(ふしごえ)
 山奥下川津南村(かわづみなみ),窪野村(くぼの),鑰之緒村(かぎのお),
野井之川村(のいのかわ),遊子谷村(ゆすだに),相川村(そうがわ),
横林村(よこばやし),坂石村(さかいし)
野村内 野村内上西村(にし),栗木村(くりのき),釜之田村(かまのた),中通川村(なかとおがわ),
釜之川村(かまのかわ),前石村(さきいし),阿下村(あげ),蔵良村(くらら),
高瀬村(たかせ),伊与路川村(いよじがわ)
 野村内下平野村(ひらの),片川村(かたかわ),次ヶ川村(つがのかわ),野村(の),
蔵村(くら),白髯村(しらひげ),鳥鹿野村(とじかの),林乗村(りんじょう),
広田村(ひろた),長谷村(ながたに),四郎ヶ谷村(しろがたに),河西村(かわさい)
宇和内 宇和内上明間村(あかんま),下川村(しとうかわ),皆田村(かいだ),伊南坊村(いなんぼう),
新城村(しんじょう),明石村(あげいし),伊賀上村(いがのうえ),松葉村(まつば),
鬼ヶ窪村(おにがくぼ),上松葉村(かみまつば),下松葉村(しもまつば),
久枝村(ひさえだ),神領村(じんりょう),野田村(のだ),小野田村(おのだ),
永長村(ながおさ),山田村(やまだ),鞍貫村(くらぬき)
 宇和内下鎌之倉村(かまのくら),若山村(わかやま),谷村(たに),影之平村(かげのひら),
布喜之川村(ふきのかわ),中津川村(なかつがわ),国木牛名村(くにぎうじな),
田浪村(たなみ),古薮村(ふるやぶ),河舞村(こうまい),
大峠村・五反田村(おおとう・ごたんだ),八代村(やしろ),南茅村(みなみかや),
北茅村(きたかや),松尾村(まつお),下郷村(しもごう),上郷村(かみごう),
河之内村(かわのうち)
矢野保内 矢野保内上常定寺村(じょうじょうじ),田野中村(たのなか),窪村(くぼ),平野村(ひらの),
伊崎村(いさき),坂戸村(さかど),賀茂村(かも),大江村(おおえ),
東多田村(ひがしただ),河内村(かわち),伊延村(いのべ),岡山村(おかやま),
田苗真土村(たなえまつち),杢所村(もくしょ),清澤馬木村(きよさわうまぎ),
小原村(おばら),両岩木村(りょういわき),郷内村(ごうない),津布理村(つぶり)
 矢野保内下野田村(のだ),平地村(ひらじ),高野地今長谷村(たかのじ、いまばせ),
津羽井村(つばい),大平村(おおひら),須川村(すがわ),日土村(ひづち),
喜木村(きき),宮中村(みやなか),両家村(りょうけ),枇杷谷村(びわだに),
皷之緒村(つづみのお)
浦方 浦方上加室浦(かむろうら),穴井浦(あない),真網代浦(まあじろ),合田浦(ごうだ),
舌間浦(したま),矢野町(やの),八幡浜浦(やはたはま),栗之浦(くりの),
向灘浦(むかいなだ),河之石浦(かわのいし),磯崎浦(いさき),伊方浦(いかた),
九町浦(くちょう),二見浦(ふたみ),三机浦(みつくえ),三崎浦(みさき),
須賀椛崎浦(すがかばさき),大浦(おおうら),奥浦(おくうら),高山浦(たかやま),
九島浦(くしま),坂下津浦(さかしづ),石應浦(こくぼ),小池九濱浦(こいけくはま),
蕨平浦(わらびひら)
 浦方下東三浦(ひがしみうら),西三浦(にしみうら),上波浦(うわば),戸島浦(とじま),
日振浦(ひぶり),近家浦(ちかいえ),下灘浦(しもなだ),内海浦(うちうみ),
平山浦(ひらやま),成川坊城浦(なるかわぼうじょう),深泥浦(みどろ),
須之川浦(すのかわ),外海浦(そとうみ),沖之島(おきのしま),鵜来島(うぐるしま)

なお、『弌墅截(いちのきり)』において、以下の各二村に関する記載は村別のデータがなくまとめて記載されている場合があるので、一ケ村とします。
宇和内の国木村と牛名村は国木牛名村に、大峠村と五反田村は大峠村・五反田村とします。
矢野保内の田苗村と真土村は田苗真土村に、清澤村と馬木村は清澤馬木村に、上岩木村と下岩木村は両岩木村に、高野地村と今長川村は高野地今長谷村にします。
当時の村の所在地を、『日本地名大辞典』(角川書店)と『愛媛県の地名』(平凡社)を利用して確定しました。各村の一覧表
その所在地をグーグルマップ上に表示します。各村の地図
各組別の地図は、『弌墅截(いちのきり)』研究データベース から地図帳を開き、組名と点データ項目の村をチェックしてをクリックすると得れます。
現在の行政区画
各村の所在地は現在、愛媛県宇和島市,西予市,八幡浜市,大洲市,愛南町,伊方町,鬼北町,松野町及び高知県宿毛市に位置します。
これらの市町村の行政区画とホームページの情報は、位置情報データベースから得れます。
位置情報データベース −  日本地図帳 −  市区町村役場の所在地・ホームページ・行政区画の境界線 −  愛媛県を選択します。
このホームページからは、各市町村へのホームページがリンクしています。
さらに、 宇和島市,西予市,八幡浜市,大洲市,愛南町,伊方町,鬼北町,松野町 のいずれかをチェックし、をクリックすると、行政区画の境界線が表示されます。
たとえば、宇和島市は、 宇和島市の行政区画
松野町を除く市町村では、2004年から2005年にかけて、合併が行われました。
合併前後の市町村の名称は、以下のとおりです。
『日本地名大辞典』と『愛媛県の地名』には、合併前の市町村名が記載されています。
合併後合併年合併前
宇和島市2005年宇和島市,吉田町,津島町,三間町
西予市2004年宇和町,野村町,明浜町,城川町,三瓶町
八幡浜市2005年八幡浜市,保内町
大洲市2005年大洲市,長浜町,肱川町,河辺村
伊方町2005年伊方町,瀬戸町,三崎町
鬼北町2005年広見町,日吉村
愛南町2004年御荘町,城辺町,一本松町,西海町,内海村

各組の村が、どの市町村に属するか、グーグルマップで確認できます。
市町村
宇和島市城下全,津島全,浦方上,浦方下
西予市山奥上,山奥下,野村内上,野村内下,宇和内上,宇和内下,浦方上
八幡浜市宇和内下,矢野保内下,浦方上
大洲市矢野保内下
伊方町浦方上
鬼北町河原淵全,廣見内全
松野町河原淵全
愛南町御庄全,浦方下
これらの情報は、『弌墅截(いちのきり)』研究データベースから得れます。
『弌墅截(いちのきり)』研究データベース  −  地図帳 を開き、
組の選択(複数も可)を行い、点データ 項目で村をチェックし、線データ 行政区画の境界線で該当市町村をチェックし、をクリックすると得れます。  
吉田藩
1657年(明暦3年)に、伊達秀宗の五男秀純に3万石が分与され、吉田藩が成立します。
吉田藩の各村は、以下のとおりです。
組の名称は、1614年(慶長19年)当時のものです。郡鑑より作成
有馬組 戸鴈村(とがり),大藤村(おおふじ),黒井地村(くろいじ),則村(すなわち),
成家村(なるいえ),曽根村(そね),能寿寺村(のうじゅうじ),是房村(これふさ),
無田村(むでん)
土居組 宮ノ下村(みやのした),末盛村(すえもり),石原村(いしはざ),土居中村(どいなか),
迫目村(はざめ)
中野内上組 小沢川村(こそうがわ),元宗村(もとむね),川之内村(かわのうち),田川村(たがわ),
波岡村(なみおか),中野中村(なかのなか),金銅村(かなどう),
土居垣内村(どいかきうち)
中野内下組 小藤田村(ことうだ),大内村(おおうち),兼近村(かねちか),沢松村(さわまつ),
告森村(こつもり){音地村(おんじ),黒川村(くろかわ),中間村(なかいだ),
成藤村(なるふじ)}
須田組 是延村(これのぶ),吉波村(よしなみ),瀬波村(せなみ),内深田村(うちふかた)
薄木組 清延村(きよのぶ),国遠村(くにとお)
川原淵組 吉野村(よしの),奥ノ川村(おくのかわ),奥野々村(おきのの),目黒村(めぐろ)
貞延組 上川原淵村(かみかわらぶち),小倉村(おぐわ),小松村(こまつ),延川村(のぶかわ),
鍵山村(かぎやま),日向谷村(ひゆうがい),父野川村(ちちのかわ),
上大野村(かみおおの),川上村(かわかみ)
津島組 北灘浦(きたなだ)
保内組 喜木津浦(ききつ),朝立浦(あさだつ),安土浦(あづち),皆江浦(みなえ),
有網代浦(あらじろ),有太刀浦(あらたち),川名津浦(かわなづ),周木浦(しゆうき),
二及浦(にぎゆう),垣生浦(はぶ),蔵貫浦(くらぬき),上泊浦(かみどまり)
板嶋組 立間村(たちま),深泥浦(みどろ),下波浦(したば),喜佐方村(きさがた),
蒋淵浦(こもぶち),渡江浦(とのえ),狩浜浦(かりはま),俵津浦(たわらづ),
深浦(ふかうら),法花津浦(ほけづ),白浦(しろうら),南君浦(なぎみ)

  各村の所在地をグーグルマップ上に表示します。村の所在地    
検地
『弌墅截』には、3回の検地にもとづく田畑の元畝(もとせ、耕地面積)が記載されています。
次に、3回の検地に関連する年表を掲げます。
1588年(天正16年)太閤検地
1間=6尺5寸竿
1614年(慶長19年)伊達秀宗、宇和島10万石の領主
藤堂和泉殿より引渡し 「元畝」
1645年〜1648年(正保年間)岡谷兵右衛門の検地 「検地畝」
1間=6尺3寸竿
1670年(寛文10年)〜1672年(寛文12年)寛文の内ならし検地 「庄屋中」
1間=6尺竿
1684年(貞享元年)『弌墅截』 伊関又右衛門盛英

慶長19年に、当時幕領であった宇和郡の代官・藤堂高虎より領地の引渡しが、伊達秀宗に行われます。
このときの耕地面積は、「元畝」として記載されています。
この耕地面積は、天正16年の太閤検地に用いられた1間=6尺5寸竿によって行われたとされています。
正保年間には、岡谷兵右衛門により1間=6尺3寸竿を用いた検地が行われました。
これは、「検地畝」として標記されています。
寛文のうちならし検地では、1間=6尺竿を用いた検地が行われ、「庄屋中」として標記されています。
尺貫法による面積の単位となる坪(つぼ)は、一辺が1間(6尺)の正方形の面積と定義されています。
従って、1間の物指しが異なれば、同じ面積でもその数値が異なります。
1尺 = 10寸 = 10/33メートル
「元畝」では、1間=6尺5寸竿、1坪=(6.5*10/33)2=3.879706m2
「検地畝」では、1間=6尺3寸竿、1坪=(6.3*10/33)2=3.644628m2
「庄屋中」では、1間=6尺竿、1坪=(6*10/33)2=3.305785m2
同じ畝数でも、面積比は、
「庄屋中」:「検地畝」:「元畝」= 1 : 1.1025 : 1.1736
となります。従って、「庄屋中」,「検地畝」,「元畝」の面積を比較するときには、この補正が必要です。
資料『弌墅截』光満村
『弌墅截』は、 伊関又右衛門盛英によって編纂され、1684年(貞享元年) 成立しました。
『弌墅截』は、宇和島藩の各村毎の租税台帳です。
租税は、1670年(寛文10年)〜1672年(寛文12年)の寛文の内ならし検地をもとに、1673年(延宝元年)の 定免(じょうめん)制によって決められました。
定免制とは、ある一定期間、年貢高を固定する制度です。
次の資料は、三好昌文の『宇和島藩庁伊達家史料 弌墅截上』における、城下全光満村に関するページです。
著者の了解を得て掲載します。


津出道法
各村の最初に記載されているのが、津出道法(みちのり)です。
津出道法には、津出し所,そこまでの距離、さらに道法の特徴や廻船の運賃が記載されています。
津出しとは、「港から荷船を出すこと」を意味しますが、ここでは港に限らず、荷(米や大豆など)を運び出すことを意味していると解釈できます。
津出し所として、以下の地名があげられます。
高丸(高丸蔵),坂石蔵,こごみ,三ツ石,硯,大洲御領森山,大洲大竹村船着,須合田(すごた),
宮中蔵,雨井内舟場(雨井),宮内村蔵所,八幡浜,津布里(蔵本),濱(鞍貫村),俵津浦,法花津(ほけつ),
深浦(吉田藩),御城下(御蔵),津島芳原村船着,岩松村船着,当所浜(御庄長洲村),深浦(御庄),
平城貝塚(貝塚),当所浜(御庄柏村),満蔵(満蔵御蔵)
津出し所をグーグルマップ上に表示します。津出し所 
この地理情報は、 『弌墅截(いちのきり)』研究データベース  −  地図帳 を開き、
組の選択で全村をチェックし、点データ 項目で津出しをチェックし、をクリックすると得れます。
津出と村
次の表は、どの村からどの津出し所に出されていたかを示します。
津出し所2が存在する場合は、津出し所2を経由して津出し所1に運ばれます。
リンク先は、津出し所と村を示すグーグルマップ、道法の地理情報です。

津出し所1津出し所2
須合田坂石蔵野村内上釜之川村
 高丸山奥上魚成本村,田野村,長谷村,今田村,男川内村,下相村,
土居村, 古市村,中津川村,伏越村
  山奥下川津南村,窪野村,鑰之緒村,坂石村
  野村内上前石村
 こごみ野村内上栗木村,釜之田村
 三ツ石野村内上西村,中通川村,阿下村,蔵良村
  野村内下平野村
 山奥下野井之川村,遊子谷村,相川村,横林村
 大洲大竹村野村内上伊与路川村
  野村内下蔵村,白髯村
 大洲御領森山野村内上高瀬村
雨井内舟場  矢野保内下須川村,日土村,喜木村,宮中村,両家村,枇杷谷村,
皷之緒村
 宮内村蔵所矢野保内下両家村,枇杷谷村,皷之緒村
八幡浜 宇和内下鎌之倉村,若山村,谷村,布喜之川村,中津川村,
国木牛名村,田浪村,古薮村,河舞村,
大峠村・五反田村,八代村,南茅村, 北茅村,松尾村,
下郷村,上郷村,河之内村
  矢野保内上東多田村,河内村,伊延村,岡山村
  矢野保内下野田村,平地村,高野地今長谷村,津羽井村,大平村
津布里 宇和内上山田村
  宇和内下影之平村,矢野保内上
濱(鞍貫村) 宇和内上鞍貫村
俵津浦 宇和内上伊南坊村,新城村,明石村,伊賀上村,鬼ヶ窪村,
上松葉村, 下松葉村,久枝村,神領村
  矢野保内上常定寺村,田野中村,窪村,平野村,伊崎村,田苗真土村
法花津  野村内下片川村,次ヶ川村,野村,鳥鹿野村,林乗村,広田村,
長谷村,四郎ヶ谷村,河西村
深浦(吉田藩) 宇和内上松葉村
御城下(御蔵) 城下全毛山村,中間村,柿原村,光満村,高串村,川内村,
寄松村,宮下村,稗田村,祝之森村
  御庄全上大道村
  津島全野井村,岩淵村,秀松村,槙川村,高田村,下畑地村,
上槙村,大道村,御代之川村,山財村,颪辺村,
御内村,岩松村
  河原淵全牛野河村,北川村,奈良村,奈良中之川村,芝村,
近永村, 永野市村,次郎丸村,中之川村,松丸村,
樫谷村, 上家地村,延野村
  廣見内全廣見村,下大野村,中尾坂村,小西野々村,西野々村,
清水村,松之森村,畔屋村,大宿村
  宇和内上明間村,下川村
 海上浦方上須賀椛崎浦
 海上浦方下沖之島,鵜来島
津島芳原村船着 津島全下畑地村,上槙村,芳原新田
岩松村船着 津島全岩淵村,秀松村,槙川村,高田村,大道村,御代之川村,
山財村,颪辺村,御内村,岩松村
灘乃内嵐浦 津島全上畑地村
深浦(御庄) 御庄全緑村
 満蔵御庄全緑村,上大道村,廣見村,正木村,板尾村,小山村,
中之川村,満蔵村,上大道村,満蔵村
平城貝塚 御庄全左右水村,長月村,和口村,城邊村,平城村
当所浜(御庄柏村) 御庄全柏村
当所浜(御庄長洲村) 御庄全長洲村
海上 浦方上大浦,奥浦,高山浦,九島浦,坂下津浦,石應浦,
小池九濱浦,蕨平浦
  浦方下上波浦,近家浦,沖之島,鵜来島


津出
津出し所から、海路を利用して、何処に運ばれたかの記載が明白なのは、以下の各村です。
大阪と御城下に  地図

宇和内上伊南坊村,新城村,明石村,伊賀上村,松葉村,鬼ヶ窪村,上松葉村,下松葉村,
久枝村,神領村,野田村,小野田村,永長村,山田村,鞍貫村,鎌之倉村
宇和内下若山村,谷村,影之平村,布喜之川村,中津川村,国木牛名村,田浪村,古薮村,
河舞村,大峠村・五反田村,八代村,南茅村,松尾村,下郷村,上郷村,河之内村
矢野保内上常定寺村,田野中村,窪村,平野村,伊崎村,坂戸村,賀茂村,大江村,東多田村,
河内村,伊延村,岡山村,田苗真土村,杢所村,清澤馬木村,小原村,両岩木村,
郷内村,津布理村
矢野保内下野田村,平地村,高野地今長谷村

御城下に   地図
御庄全左右水村,長月村,緑村,大道村,廣見村,正木村,板尾村,小山村,中之川村,
満蔵村,城邊村,平城村,長洲村,摺木村,柏村
津島全上畑地村
浦方下下灘浦,内海浦,外海浦,沖之島,鵜来島

浦方上八幡浜浦は、大阪と御城下
浦方上磯崎浦は、御城下
浦方上須賀椛崎浦は、御蔵と大阪
以下の津出し所に関して、その先何処に運ばれたかの記載がありません。
(1)佐多岬半島の北に位置する須合田
(2)津島全の津島芳原村船着と岩松村船着
(3)浦方上の加室浦,穴井浦,真網代浦,合田浦,舌間浦,矢野町,栗之浦,向灘浦,河之石浦,伊方浦,
九町浦,二見浦,三机浦,三崎浦,大浦,奥浦,高山浦,九島浦,坂下津浦,石應浦,小池九濱浦,蕨平浦
ただし、大浦,奥浦,高山浦,九島浦,坂下津浦,石應浦,小池九濱浦,蕨平浦は、道法の記載あり。
(4)浦方下の東三浦,西三浦,上波浦,戸島浦,日振浦,近家浦,平山浦,成川坊城浦,深泥浦,須之川浦
ただし、上波浦,近家浦は、道法の記載あり。

御城下と御蔵
津出し所として、御城下と御蔵があります。
御蔵の位置と御城下の町並みを示す2枚の絵図があります。 御城下の絵図と城下町づくり
正徳元年(1711年)の絵図には、右下方の丸之内和霊神社の傍に御蔵の文字が見えます。
従って御蔵の位置は、現在の国道56号線宿毛街道の丸之内和霊神社付近になります。
安政・文久頃(幕末の1854〜1863年)の絵地図には、宇和島の町並みと新田が描かれています。
新田が開かれた年代は、次のとおりです(「宇和島市誌下巻」)。
冨堤新田は元文元年(1736年), 下村新田と山下新田は寛政7年(1795年),
兼助新田は文政10年(1827年), 岡村新田は弘化(1844〜1848年)
従って、1736年以前には、丸之内3丁目と丸之内4丁目は海に面していたことになります。

グーグルマップで見る宇和島の海岸線の変遷

御城下(御蔵)までの道法
陸路を利用して、御城下(御蔵)まで津出しをした各村の道法は、以下のとおりです。
道法
城下全毛山村御蔵・5町程(0.5Km)
中間村御蔵・15町程(1.6Km)
柿原村御蔵・27町46間(3Km)
光満村御城下・1里(3.9Km)
高串村御城下・1里(3.9Km)
下村御城下・10町余(1.1Km)
川内村御城下・17町(1.9Km)
寄松村御城下・21町(2.3Km)
宮下村御城下・17町(1.9Km)
稗田村御蔵・1里7町余(4.7Km)
祝之森村御城下・1里18町(5.9Km)
津島全野井村御城下・2里15町30間(9.5Km)
岩淵村御城下・3里20町(14Km)
秀松村御城下・4里7町(16.5Km)
槙川村御城下・5里半(21.6Km)
高田村御城下・3里(11.8Km)
下畑地村御城下・4里8町(16.6Km)
上槙村御城下・5里28町(22.7Km)
大道村御城下・4里半(17.7Km)
御代之川村御城下・3里(11.8Km)
山財村御城下・3里半(13.8Km)
颪辺村御城下・3里余(11.8Km)
御内村御城下・5里8町(20.5Km)
岩松村御城下・3里(11.8Km)
道法
河原淵全牛野河村御城下・2里(7.9Km)
北川村御城下・2里余(7.9Km)
奈良村御城下御蔵・2里26町(10.7Km)
奈良中之川村御城下・3里余(11.8Km)
芝村御城下・3里余(11.8Km)
近永村御城下・3里余(11.8Km)
永野市村御城下・3里余(11.8Km)
次郎丸村御城下・4里余(15.7Km)
中之川村御城下・4里余(15.7Km)
松丸村御城下・4里余 (15.7Km)
樫谷村御城下・4里30町余(19Km)
上家地村御城下・5里余(19.7Km)
延野村御城下・4里余(15.7Km)
廣見内全廣見村御城下・5里半余(21.6Km)
下大野村御城下・5里半(21.6Km)
中尾坂村御城下・5里半余(21.6Km)
小西野々村御城下・5里(19.7Km)
西野々村御城下・4里半(17.7Km)
清水村御城下・4里27町(18.7Km)
松之森村御城下・4里28町(18.8Km)
畔屋村御城下・4里半(17.7Km)
大宿村御城下・5里25町(22.4Km)
宇和内上明間村御城下・4里(15.7Km)
下川村御城下・4里(15.7Km)
浦方上須賀椛崎浦御蔵・7町(0.8Km)

御城下からの距離
各村から御城下(御蔵)まで道法は、上記の表に示されています。
この値が妥当かどうかを、御城下からの直線距離を見積もることによって検討できます。
これには、「位置情報データベース」の「スケール,距離・方位,位置,道のり1,コンパス,分度器,扇,面積,方眼,道のり2」の機能を利用します。
これの「コンパス」の機能を用いると、御城下を中心とした円が描けます。

その利用方法は、御城下を中心に円を描く


半径5,10,15,20,25Kmの円を、各々 線で描く

村からの距離
各村から御城下(御蔵)まで道法の妥当性を、各村を中心とした円を描くことで検討できます。
これには、『弌墅截(いちのきり)』研究データベースの道法を利用します。

その利用方法は、 各村を中心に円を描く


河原淵全の牛野河村,北川村,奈良村を中心として、道法を半径とする 線で円を描く
村と村の距離
道法の妥当性を、村と村の距離を測定することで検討できます。
これには、「位置情報データベース」の「スケール,距離・方位,位置,道のり1,コンパス,分度器,扇,面積,方眼,道のり2」の「距離・方位」の機能を利用します。
例として、河原淵全の樫谷村(御城下まで4里30町余(19Km))と上家地村(御城下まで5里余(19.7Km))の直線距離を測定します。
その利用方法は、 村と村の距離を測定


河原淵全の樫谷村と上家地村の距離を測定する
道法の測定
道法の妥当性は、村と村の道法を測定することによって、より詳しく検討できます。
測定には、「位置情報データベース」の「スケール,距離・方位,位置,道のり1,コンパス,分度器,扇,面積,方眼,道のり2」の「道のり2」の機能を利用します。
例として、御蔵から城下全祝之森村(御城下より1里18町,5.9Km)の道法を測定します。

その利用方法は、 道法の測定


御蔵から城下全祝之森村の道法を測定する
ルート図の作成 その1
道法を検討するのに、ルート図を用います。
しかし、ホームページで利用可能なルート図は、ありません。そこで、ルート図を作成する必要があります。
ルート図の作成には、 「位置情報データベース」の「国土地理院基盤地図情報(行政区画の境界線・道路縁・軌道の中心線・水涯線)の表示と編集」を用います。
愛媛県愛南町の満倉から深浦へいたるルート図の作成を例にとり、その使用方法を説明します。

その使用方法は、 ルート図の作成



ルート図の作成 その2
道路縁情報が利用できない場合、グーグルマップを用いて、ルート上のポイントを指定してルート図を作成します。

その使用方法は、 ルート図の作成 その2

この方法を用いて、 宇和島の海岸線の変遷や肘川のルート図を作成しました。


道法の測定 その2
道法の測定には、「位置情報データベース」の「スケール,距離・方位,位置,道のり1,コンパス,分度器,扇,面積,方眼,道のり2」の「道のり1」の機能が利用できます。

その使用方法は、 道法の測定 その2


伊予の遍路道
御蔵から城下全祝之森村までのルート図は、「伊予の遍路道」(平成13年度 遍路文化の学術整理報告書 愛媛県生涯学習センター)を参考にして作成しています。
伊予の遍路道


ルート図の作成 その3
「位置情報データベース」 − 「国土地理院基盤地図情報(行政区画の境界線・道路縁・軌道の中心線・水涯線)の表示と編集」  − 「道路縁データの表示と編集」を利用して作成した複数のルート図に対して、編集を行います。

道路縁データの編集


道路縁データの編集 その2
編集済みのルート図(線データ)と地点の緯度・経度データ(点データ)を用いて、それらをグーグルマップ上に表示するホームページを作成します。

道路縁データの編集 その2


津島全野井村から御城下へ
津島全野井村から御城下への津出道法は、「但津出道法御城下迄弐里拾五町三拾間、内拾五町拾間野井坂といふ坂有、馬不持百姓難儀之由。」と記述されています。
この記述に照らして、当時の野井村が何処にあったかの検討を行います。

津島全野井村から御城下へ


肘川を利用した津出
山奥上・山奥下・野村内上と一部の野村内下の村からの津出は、肘川(ひじかわ)を利用して大洲藩賀屋村の須合田(すごうだ)の蔵に行われていました。

肘川を利用した津出


津出しと庄屋
各村の何処から津出しが行われたかを確定する上で、庄屋の所在地を知ることが手掛かりになります。

津出しと庄屋

今日は、ここまで(2010.12.1更新)
続きは、そのうちに