山奥上・山奥下・野村内上と一部の野村内下の村からの津出は、肘川(ひじかわ)を利用して大洲藩賀屋村の須合田(すごうだ)の蔵に行われていました。
肘川最上流の河港は、高丸です。高丸から須合田までの距離は、11里(43.2Km)です。
高丸より下流の港と須合田までの距離は、 こごみが10里余(39.3Km) 、三ツ石が10里余(39.3Km)、硯が10里(39.3Km)、森山が6里(23.6Km) 、大竹が5里(19.7Km)です。
須合田の下流6Kmの地点は、肘川河口です。河口には、長浜港があります。
須合田は、宇和島藩・大洲藩(おおずはん)・新谷藩(にいやはん)からの物産の集積地です。
須合田から長浜まで、物産の積み下げが行われています。
河船一艘に、33俵が積まれています。
須合田までの運賃は、高丸が20匁、こごみが18匁、三ツ石が17匁5歩、硯
が16匁、森山が10匁、大竹が6匁です。
須合田では、「須合田蔵元ニ而壱俵ニ付浜上九夕、浜下九夕、蔵敷壱合以上弐合八夕ツツ、外さし米とて五夕も壱合も入るよし。」の記述があります。
さし米(差米/指米/刺米)とは、「江戸時代、米を検査するため、俵に米刺しを入れて抜き出した米。のち、仲仕(なかし)などが賃金として受け取るようになった」(大辞泉)
運行時間は、肱川町誌によると、以下のようになります。
「高丸港から硯港(一里)まで一時間ほど、硯港から大洲まで1日(5,6時間)、長浜まで二日で下るのが普通であった。上がりは、長浜から1日目が大洲,2日目が森山,3日目が硯,高丸港に4日目に着くのが順調な運行であった。当時(明治29年)一艘の川舟が(小込の舟繋ぎ場から)大洲まで運行していたが、1か月に三回程度の運行であった。」。
また舟の数は、「高丸には大型の舟(33俵積み・舟人3人乗り)10艘が、小込には日本形小船1・2艘が、硯には30俵積み・舟子二人乗りの藩舟が10艘くらい」
川舟の下り便は、「櫓とミザワ(棹)を使い、流れに乗って」下った。上り舟は、「帆を掛けて風も利用」、「瀬は、三・四艘が組となり、大綱で舟を結び、曳き舟専門の牛を雇い、川原を歩かせて舟を引かせ、船頭も肩綱を掛け牛と共に引っ張り、舟のへ先を握り河原に乗り上げないよう舵を取りながら」上がった。